眺望が開け、しかも岩盤で崩れにくい絶好地の丘を城地に選んだのは、羽柴(のち豊臣)秀吉でした。現在は虎伏山と呼ばれていますが、築城当時は、今の和歌山県立近代美術館、同博物館が建つ岡山(奥山)一帯を含めて「吹上ノ峰」と呼ばれていたのです。

 秀吉が築城する以前、岡山に城が築かれていたと江戸時代の書物にあり、1903(明治36)年の『紀伊繁昌誌』には「尋常師範学校の東南丘上にあり」と場所が記されています。

 これらの記述をもとに増補5版までの和歌山市発行の『和歌山史要』に、岡山の北端から南へ300㍍の所に石垣を積んだ跡があり、崩れた多くの石が転がっていることや伝承のある事もあわせて「今いずれとも考定し難いが、城跡があったことは疑いのない事実である」と紹介されています。しかし、昔の面影を全く残さない今日では、その存在を確かめることはできません。

 城跡があったという尋常師範学校は、現在の和歌山大学のことで、かつて学芸学部(のち教育学部)が岡山にあり、その入り口脇に「岡山」と彫られた石碑と説明板がありました。城跡のことではなく、当地から東南に広がっていた岡山砂丘を伝えるものでした。

 岡山からの眺望は、東の龍門山(紀の川市)、東南の生石山(海南市)はもちろん、西は海を隔てて、淡路島や阿波(徳島県)の山々が見えたと『和歌山史要』に書かれていますが、北は虎伏山にさえぎられていたかも知れません。そこで秀吉は、居城大坂方面(北方)が開けて、遠くからも望める虎伏山(吹上ノ峰北端)を、周囲に権力を示すにふさわしい場所として、築城地に選んだと思われます。

 近年の発掘調査などから、この虎伏山の一角に寺院があったのではないかと考えられています。そうだとすれば、寺院を移動させてまで虎伏山の立地に、秀吉はこだわりを持っていたということになります。

写真=和歌山城天守閣から岡山を望む

(ニュース和歌山より。2017年3月18日更新)