江戸幕府8代将軍、吉宗らを輩出した御三家の一つ、紀州徳川家。和歌山市のペンネーム、不思議さんから、こんな質問が届きました。「紀州55万石の和歌山城は徳川御三家で知られていますが、普通に考えて大阪に居を構えるべきでは? なぜ頼宣は和歌山だったの?」

 徳川御三家とは将軍家に次ぐ家格を持ち、徳川の名が認められた分家のこと。和歌山市には居城の和歌山城や紀州東照宮、養翠園などが今も残ります。近畿には大阪や京都、奈良などあるのに、なぜ和歌山…?

 


 

大坂と江戸を結ぶ物流の要衝だった

 徳川御三家、なぜ大阪ではなく和歌山だったの?」。和歌山市立博物館の佐藤顕学芸員に聞くと、明確な資料はないものの、次の話をしてくれました。

 家康の死後、三男の秀忠が2代将軍に就任。西国の守りとして大坂城に城代を置き、幕府の管轄としました。さらに幕府に反旗を翻した大名が大坂城を奪った時の抑えにと、周辺に親せきや信頼する家臣を配置。和歌山は家康の十男、頼宣が入り、御三家の一つ、紀州徳川家が誕生しました。

 ではなぜ和歌山だったのか…。注目は交通事情です。「海上輸送が主流だった当時、大坂と江戸を結ぶ航路にある和歌山は、物流の要衝としてにぎわい、重視されていたことから、御三家の一つとした説が有力です」と佐藤さん。

 ちなみに以前は「秀忠が、邪魔な頼宣をへき地の紀州へ送って御三家になった」説が聞かれました。今でこそ主な交通路から外れますが、当時は盛んな交易で重要な場所だったんですね。

(ニュース和歌山/2022年8月6日更新)