各所に様々な偉人の石碑が建っていますが、どういったゆかりがあるかご存知ですか? 今回は和歌山市のK・Yさんから届いた「舟大工町に勝海舟の石碑があるのはなぜ?」を調べます。

 江戸生まれの勝は、幕末から明治にかけて名をはせた一人です。1860年、咸臨丸の艦長として太平洋を横断し、その後、海軍創設に尽力しました。

 早速、足を運ぶと、和歌山市駅近くの質店敷地にありました。「勝海舟寓居地」と書かれています。寓居とは「仮住まい」の意味。ここへ身を寄せていた時期があるのでしょう。でも、何のために?

 



海防視察で滞在した地

 「和歌山市舟大工町に勝海舟の石碑があるのはなぜ?」。まず、勝と紀州のつながりについて、勝の写真を展示している市立博物館の佐藤顕学芸員に聞きました。幕末、開国を迫る外国に対し、天皇のいる京都を守るため、幕府は大阪湾の海防体制強化を指示。そこで勝は1863年、紀淡海峡に面する加太や友ヶ島に配備した台場(砲台)の確認に度々、訪れました。「このうち、4月2日~13日、橋丁の商家、福島屋へ滞在したと、勝の日記に残っています」

 石碑は1940年10月、橋丁に建てられ、現在は数十メートル東、舟大工町のくいのせ質舗敷地にあります。店主の杭ノ瀬雅文さんは「戦後、土地を購入した祖父が、戦火で道の横に捨て置かれた碑を見つけ、この場所へ移設しました」と教えてくれました。福島屋の敷地はとても広く、市堀川沿いの道路に面した橋丁から、質店が建つ隣町の舟大工町まであったそうです。

 こうして、場所は移りましたが、市民の善意で、同じ福島屋があった敷地の一画で大切に保存されてきました。碑の存在は、土地の歴史を受け継ぐ印。未来へ残したいですね。

(ニュース和歌山/2022年10月29日更新)