1945年のきょう7月9日深夜から翌10日未明にかけ、和歌山市の市街地は大空襲に見舞われました。当時も今も市の南西部、雑賀崎で暮らす祖父は終戦の年に15歳、祖母は13歳。祖母はあの夜、焼け落ちる和歌山城の天守閣を雑賀崎の高台からはっきり見たと言います。

 あの戦争のことで祖父母の記憶に最も深く残るのは、和歌山大空襲ではなく、海南市下津町と有田市にある製油工場への空爆でした。すでに漁師をしていた祖父は父親、私からすれば曾祖父と一緒に早朝、由良近くでイサギを釣っていました。そこへやって来たのがアメリカ軍機。それ以前に漁をしていた叔父が敵機に命を奪われていたことから、慌てて船内の寝泊まりするスペースに身を隠し、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」と祈ったそうです。

 難を逃れたその日の夜、雑賀崎へ戻る途中のこと。有田沖はいつも陸と地ノ島との間を通りますが、北上するB29を見た曾祖父から「淡路島の方へ行け!」と指示が出ました。進路を変えた直後、イヤな予感は的中。沿岸部の工場に爆弾が次々と落とされました。「山がまるごとなくなったのではと思うぐらいの爆音だった」と祖父。雑賀崎にいた祖母は、空爆前に落とされた照明弾が忘れられないと語ります。「夜が一瞬、真っ昼間になった。あれが一番恐ろしかった」。あの日感じた恐怖は今も心に刻まれています。

 これまで祖父母から戦争の話を深く聴いたことはありませんでした。何となく話したくないんじゃないかと考えていました。初めて聴いてみようと思ったのは、弊紙7月2日号1面に掲載した「和歌山大空襲 今とどめる火の海の記憶」がきっかけでした。和歌山市立博物館が空襲の記憶を後世へつなぐため、体験者への聞き取りを昨年から進めているとの内容です。

 私自身、戦争を強く否定するあまり、戦争について聴いたり、勉強したり、語り合ったりするのを避けてしまう、そんな面がありました。皆さんはいかがでしょう。71年も前のことですが、私の祖父母の記憶は鮮明でした。製油工場への爆撃を海から見たというような経験はなかなかないかもしれませんが、皆さんの身の回りの方々の経験もそれぞれ唯一のものです。未来へと語り継いでいくためにも、まずはおじいさん、おばあさんら身近な人とひざを突き合わせ、耳を傾けてみませんか。(西山)

(ニュース和歌山2016年7月9日号掲載)