100年超の歴史を誇る河西橋(和歌山市西蔵前丁〜北島、478㍍)の歩みを元和歌山大学客員教授の武内雅人さんが明らかにしつつある。2024年の新橋架橋後の撤去を前に記録に残そうと調査を進め、水害で改修を重ね、継ぎ接ぎ橋となった原因を探った。来春には講演会も計画され、武内さんは「豊かな物語のある橋。多くの人に味わい尽くしてほしい」と望んでいる。

撤去近づく河西橋 調査〜近代化遺産研究 武内雅人さん

 河西橋は1914年、加太軽便鉄道の和歌山口〜加太間の紀ノ川橋梁として開通、小型蒸気機関車が走った。戦後も和歌山市〜東松江間の南海加太線北島支線として使われたが、53年の大水害による被害で橋の鉄道利用を中止。橋は市が買い取り、道路橋となるも、66年の台風24号で橋梁2ヵ所が流出、改修が重ねられた。補修跡が目立つ橋ながら独特の風情で市民に親しまれている。

 ただ老朽化は否めず、市は上流側に新橋の建設を進める。2輪歩行者専用は今と同じだが、幅は広がり、歩行者専用レーンを設置。完成後に現在の河西橋は取り壊す。

 近代化遺産を考古学的に研究してきた武内さんは河西橋の撤去を知り、3年前に調査を開始。公文書や新聞記事で記録をたどる一方、何度も橋へ足を運び、橋げた、橋脚、橋床や構造を調べた。改修の前後関係を明らかにし、その成果を今夏、『地方史研究』に発表した。

 その後、国立公文書館で、加太軽便鉄道が13年に国に出した橋の認可申請書を発見。最初に認可されたのは、江戸時代以来の松杭や岸壁用の鉄管柱を橋脚にした鉄道用とは思えない姿であった。しかし、開通翌年に機関車が橋から転落。事故を伝える新聞写真には石積橋脚が写り、工事直前に突然変更されたことが判明した。

 こうして建設された橋梁は10年後に強度不足で大型化した貨物の通行ができなくなり、堤防のかさ上げ工事も課題になった。周辺の堤防工事が完了し、北島橋や湊水門が完成した36年には橋のかさ上げが行われたと見られる。問題は南側橋脚に施された工法で、武内さんは「橋脚と基礎の間に高さ約80㌢の小判型コンクリートをはさんだだけ。それも橋脚のすそより小さく、水中の基礎ともつながっていない。この時、橋は構造的な弱さを抱え、水害に弱い継ぎ接ぎの橋になる運命が決まりました」。

 研究成果は今後も論文で発表する予定だが、来年2月に加太線と河西橋をテーマに講演会を計画中だ。企画者の和歌山大学協働教育センターの寺本東吾客員教授は「橋が姿を消す前に加太線の歴史を振り返り、昭和20年代の貴重な写真、橋の改修跡から語りあい、知られざる河西橋の謎に迫りたい」。武内さんは「なぜ突然石積になったのかは謎で、物語は絶えません。そもそも南海の鉄橋のように余裕のある強度と高さで造れば運命は変わったでしょう。軽便鉄道は鉄道の規制緩和でできた。規制緩和をいい加減にするとどうなるか。現代へのメッセージにもなります」と話している。

写真=隣で新橋の設置工事が進む河西橋

(ニュース和歌山/2018年11月17日更新)