今年は紀州藩5番目のお殿様、徳川吉宗(1684〜1751)が8代将軍となり300年。吉宗の故郷和歌山市へ来てもらおうと、市は観光PRしています。吉宗のどこが偉かったのでしょう。歴史に詳しい小山譽城先生に教えてもらいました。
16030945_yosizo
ぜい沢はダメ

 吉宗が紀州藩主になったのは1705年。藩は当時、借金まみれでした。最初の藩主、頼宣が幕府に借りた10万両、度重なる江戸紀州藩屋敷の火事、吉宗の兄綱教が将軍綱吉の娘、鶴姫を嫁に迎えたのもお金がかかりました。

 吉宗は「質素倹約」を大切にしました。ぜい沢をしないことです。

 「藩主になり、初めてお城に入る時、小倉織の袴に木綿の羽織という質素な服で馬に乗って現れ、ぜいたくな服の家臣にはずかしい思いをさせました」と小山先生。

 今でいう給料カットや役人を減らし節約に努め、帳簿には自ら目を通し、計算ミスを指摘しました。朝夕、城下のぜい沢を見張る「町廻横目」20人を置きました。「絹を着た武家の子どもがいると、親を呼び、『小さい時から絹を着ると、軟弱になる。木綿を着なさい』と命じました」。藩主を務めた12年で、お金は14万両、米は11万石の黒字にしました。

働き者将軍

 藩主としての仕事が買われ、1716年、8代将軍になります。「享保の改革」の始まりです。
 倹約令を出し、ぜい沢をいさめました。また、決められた石高がないとつけない役職に、能力の高い人をつけ、不足分を幕府が出す「足高の制」を定め、力のある人を生かしました。

 庶民の意見を聞く目安箱を置き、火事が多かった江戸を守るため町人の火消組を作りました。和歌山から江戸へ井沢弥惣兵衛を呼び、紀州流の土木事業を広げ、新しい田をたくさん作りました。

 このほか財政、法律と改革を進め、小山先生は「働き者の将軍でした」。その理由は何でしょう。

 「吉宗は四男で藩主や将軍になれる人ではなかった。そういう人が地位を与えられると、将軍より将軍らしい人になろうとします。吉宗は家康のひ孫で、家康のような将軍の姿への憧れが吉宗を動かしたと思います」

 

吉宗ってこんな人

16030945_yosiillu・平均身長150㌢の時代、吉宗は180㌢の大男。色黒で、相撲取りにも負けない力持ちだった。
・6歳の時にけがをし、付き人が罰を受けた。おこられるのは自分だと付き人をかばった。思いやり深く、家臣にやさしかった。
・藩主になる前は城下を自由に巡った。夫婦げんかにでくわし、家臣に仲直りさせた。
・朝は重箱に入った焼きおにぎりと唐辛子味噌、昼はお膳に吸い物一種。夜は昼食の残りの冷や飯をよく食べた。

写真上=県庁前交差点にある吉宗像 同下=和歌山市観光キャラクター吉宗くん

(ニュース和歌山2016年3月9日号掲載)