高石垣の一部に消滅した個所があります。和歌山市役所前の西堀に沿う歩道を南に折れて、堀が切れた辺りまで歩きます。そこに「この付近の石垣」と書かれた小さな説明板が木立の中にあります。この付近から不明(あかずの)門に続く石垣は、高石垣と呼ばれる事を記したあとに「江戸時代は前の国道24号のほぼ中央付近まで石垣が張り出していました」と旧状を伝え、「明治41年(1908)路面電車を通すため石垣が取り除かれた」と消えた石垣の理由が書かれています。

 同じ場所から消えたものが、もうひとつあるそうです。郷土史家の吉備慶舟氏調べの「修景施設(石垣の状況)和歌山城の石垣刻印布置図」に「天狗の足跡又は弁慶足跡という。電車線敷設の際一部石垣と共に取り除かる(天狗の出入口との口碑あり)」と足跡のついた石がスケッチされています。いわゆる天狗伝説ですが、不明門の高櫓台西に続く石垣の下にも天狗にまつわる話があります。


 徳川頼宣が入国後、和歌山城の拡張工事に取りかかりましたが、高石垣付近をすみかにしていた天狗に、退去命令を出しました。あわてた天狗は、深夜3回の巡視を約束して、居住許可を得たという話です。

 天狗は、さっそく城内巡視を始めましたが、広い城内を一夜に3度は大変です。途中で石に腰を掛け休憩したそうです。その石は「天狗の腰掛石」と呼ばれ、三年坂に沿う石垣の西角の下に、ポツンと置かれています。

石は、石垣の残石と思われますが、上部が平らで腰掛けには最適なことから、天狗伝説に結びつけたと思われます。高櫓台から西に続く石垣上から良く見えますが、柵のない塁上だけにお勧めは控えます。

 築城話には、奇談が付きものですが、消えた石垣上にあった石は、何だったのでしょうか。千切(ちきり)彫りという石垣の天端(てんぱ)石の崩落を防ぐため、石と石を繋ぐための穴だった可能性が考えられますが、今となっては、確かめようがありません。

写真上=石垣が消えた場所 同下=位置を示した図

(ニュース和歌山/2017年10月7日更新)