一ノ橋と大手門は、今も昔も和歌山城の表口に変わりはありません。出迎える一ノ橋は、水堀をまたぐ幅の広い太鼓橋で、その欄干の柱頭に擬宝珠(ぎぼし)を備えて、お城(領主)の威厳を示しています。

 一ノ橋のように、堀に掛かる木橋を江戸時代は、掛橋(懸橋=かけはし)と言いました。掛橋は、水はけを良くしないとすぐに腐ってしまうので、中央部を湾曲にするのが通例のようです。その一ノ橋は、大手門が従来の一ノ橋門から「大手門」に改称された1796(寛政8)年以降も大手橋とは呼ばずに、「一ノ橋」の呼称がそのまま残されました。

 大手門の形式は、本柱(鏡柱・親柱)の背後に控柱を本屋根に向かって、直角に小屋根を載せた高麗(こうらい)門形式です。開いた門扉を小屋根の下に収めて、雨に濡れない工夫を凝らしたもので、関ヶ原合戦後に考えられたわが国独自の構造で、江戸時代には一般的な城門となりました。それまでは、二本の本柱と控柱の上に屋根を載せた薬医(やくい)門形式でしたが、門扉を雨から防ぐために屋根が大きくなりすぎ、見通しが良くありませんでした。そこで屋根が小さくて、見通しの利く高麗門が考えられたようです。

 簡素に見える一ノ橋の大手門ですが、門に向かって右側(西側)に月見櫓がありました。月見は着見(到着を見る)で、北向かいの大手道を直視する位置に建ち、大手門よりやや前に突き出した石落(いしおとし)が、明治初年の古写真に映っています。また、『紀伊国名所図会』には、月見櫓と大手門をつなぐ白壁に狭間(さま)が描かれています。現在の白壁には何もありませんが、敵が侵入しようと一ノ橋に近づくと、白壁と月見櫓の石落や窓から鉄砲の弾が飛んでくる事を暗示させる心理効果をもたらすには必要だったと思われます。

 大手門は、1909(明治42)年に自然倒壊しましたが、1982(昭和57)年に復元され、和歌山公園の玄関として、一ノ橋と共に人々を出迎えています。

写真=公園前の顔 一ノ橋と大手門

(ニュース和歌山/2018年2月3日更新)