端午の節句が迫ってきましたが、おひな様の話題です。弊紙4月1日号で紹介した通り、漆器の産地、海南市黒江で昭和初期から作られてきた紀州雛の製造が現在、止まっています。

 紀州雛誕生は1933(昭和8)年。漆器の土台となる木地を製作していた寺下幸司郎さんが、黒江の土産品にと発案しました。その製造技術をただ一人受け継ぐのが、孫で3代目の絵付け師、池島史郎さんです。

 紀州漆器同様、紀州雛も分業制で作られます。池島さんは木地を大分県の職人に、その後の塗りを海南市内の職人に依頼。仕上げとなる絵付けを池島さんがやってきた訳です。「紀州雛」の商標を海南市外の業者が取る、予期せぬ事態もありましたが、池島さんが先に使っていたことから和解。そんなこともありながら、80年以上、一つひとつ丁寧に作られてきました。

 長年依頼してきた塗り職人から、諸事情で紀州雛の仕事を受けるのが難しいと池島さんに連絡があったのが昨年春。別業者に試作してもらったものの、男雛の胴体に使う独特の濃い青がうまく出ず、製作を続けるメドが立たないことから、池島さんは年末、紀州漆器協同組合に廃業届を出しました。

 記事掲載後、ある読者から電話をいただきました。その方のお父さんは以前、漆を塗った後に刃物で文様を彫り、金ぱくを入れる沈金の作業をされていたそうですが、現在、黒江に沈金の職人はほとんどいなくなったとのこと。「同じ漆器の産地、石川県の輪島には漆芸の学校がある。紀州雛を含め、伝統的な技術を残すため、黒江にもそんな場がいるのではないか」と指摘していました。

 組合にたずねると、1929(昭和4)年までは黒江町立漆器学校があったそうです。その復活となるとすぐには難しく、技術の継承は大きな課題です。

 漆器は英語で「japan」。日本を代表する伝統、そしてこの技術を生かし作られる紀州雛がなくなるのはやはり寂しい。池島さんは「祖父も中国から漆が入らなくなった戦時中、『合成塗料を使うぐらいなら…』と製造しなかった。私もその時の祖父と同じ気持ちです。環境が整えば再スタートしたい」。静かな口調ながら熱く語るその手の中で、女雛も男雛も一瞬、うれしそうな表情をしたように感じました。思いある限り伝統は守られる。そう信じ、復活の時を待ちたいと思います。(西山)

(ニュース和歌山より。2017年4月20日更新)