本欄「掌論(しょうろん)」の「掌」はてのひらのことで、「たなごころ」と読むと、手の心を意味します。当初は「小論」のつもりでしたが、「手に心を込め書く」との思いで「掌」の字をあてました。

 皆さんのてのひらにまつわる思い出はどんなものがありますか。聞くと、結構、人柄がにじむので、よく質問します。「車が来て危ないと手をひいてくれた父親のぶあつい手」とか「初めてつきあった女性の手を思い切ってとったら軽く握り返してくれた」なんて答えも。「生まれたばかりの子どもが小さな手で自分の指をきゅっと握ってくれたこと」と言う友人もいます。

 私は、幼いころ隣に寝ていた祖母の手です。古い家で風が吹くと物音が大きくて怖く、そんな時は祖母の手を握りました。小さい人でしたが、てのひらはごつごつしているのに温かで、ほっとして眠りにつけたものでした。

 てのひらは目に見える心のうちだと言います。哲学者の鷲田清一さんは著書『おとなの背中』で、「手伝い」「手ほどき」「手当て」の言葉をあげ、手には「相手の立場になり心を込めて他者にかかわる様子」がこもると指摘します。 一方、「手抜かり」「手抜き」には手をおろそかにすること、「手口」「手練手管」には手を姑息(こそく)に使うことへの非難があるとみます。「手」には人を思いやる心が重ねられ、扱い方で言葉が成立しているのです。

 さて衆院選挙。選挙前の報道は政党、キーマンの「手口」「手練手管」ばかりでした。今回の選挙、私たちは肝に銘ずべき点があります。それは「三極」と言われながら、考えにさほど差がない政党が向き合っている点です。

 中選挙区制では少数政党、無所属も一定の位置を得ることができました。それゆえ意見が分かれ、政策が妥協的になると批判されたのです。しかし、現状の小選挙区制は死票が多く、勝てば官軍になりがちで、政権与党は今まで以上に国民の声をくみ上げ、多様な観点に配慮しなければ専制的になれてしまう。この中で似た考えの政党が与野党となるとどうなるか。今回の選挙はそんな状況をいかに察知し、国民がこの手でどう舵をとるのかが問われています。

 私たちの幸福は手と手を結んだ先の、ほんのささやかなところにあります。そんな小さな温もりを受け止めてくれるか。候補者から差し出された手に感じてみる必要がありそうです。

(髙垣善信・本紙主筆。毎月第2土曜掲載)

(ニュース和歌山/2017年10月14日更新)